信子さまの長年にわたるご病気と精神的障害が、家族との不仲や確執が原因だとしたら…
今はずいぶんふっくらされて、お元気そうに見える信子妃殿下ですが、
2013年に公務復帰される前の約8年間は、いろんな病気や障害に悩まされてきました。
ちなみに、信子さまは麻生太郎の妹です!
そして、成人した娘二人(彬子女王・瑤子女王)と、母信子さまが笑顔で会話をされている様子を見たという人は、令和になっても誰一人いません。
皇室のタブー・寛仁親王(ともひとしんのう)家の確執、母子愛憎劇。
お若い頃はキャシャでガッリガリだった信子さま、
お歳を増すごとに、どんどん兄の麻生太郎に顔が似てくる信子さまの過去に、一体何が?
信子妃殿下のご病気と障害とは?
信子さまは2004年(平16)5月、49歳のとき
脳卒中に繋がりやすいといわれる「一過性脳虚血の発作」を起こされてから、
「更年期障害」「胃潰瘍(いかいよう)」「気管支喘息」を併発。
以降、入退院を繰り返され、長年公務を欠席されていました。
2012年(平24)6月、夫・寛仁親王のお葬式のときでさえ、表に出ることはなく、喪主は長女の彬子女王でした。
2013年8年ぶりの公務復帰
信子さまが、8年ぶりにようやく「公務復帰」と報じられたのは、2013年11月。
▼2013年10月 宮中晩餐会 11年ぶりご出席
▼2013年11月 園遊会 10年半ぶりご出席
▼2015年1月 一般参賀 19年ぶりご出席
と、徐々に回復されていったご様子。
▼2015年1月 佳子様・三笠宮様・信子様
2019年6月、令和初の国賓として、トランプ大統領が来られた宮中晩餐会では
長女彬子(あきこ)さま、次女瑤子(ようこ)さまとともに、
お元気そうな信子さまの姿を拝見できて、何よりでした。
信子妃殿下の娘との確執
実は、信子さまと娘二人(特に長女の彬子さま)は、10年以上犬猿の仲というのは有名な話。
彬子(あきこ)さまは、2015年6月10日発売の『文藝春秋』で
「私は10年ほど母とは会っておりません」
と、はっきりと、取材に対して母・信子さまとの確執を隠すことなく告白したこともありました。
彬子さま、2015年の衝撃告白!
2012年6月に寬仁親王(ともひとしんのう)が亡くなってから、3年が経ったタイミングでの告白でした。
「10年母と会ってない」ということは、ちょうどの信子さまが、「一過性脳虚血の発作」を起こし、公務を休み始めた頃から、ずっと会われていなかったということ。
2012年6月に、寬仁親王のお葬式のでさえ信子さまが姿を現さなかったのは、
自身のご病気が理由だけでなく、娘との確執も大きな要因だったといわれています。
家庭不和は2003年から?
1980年11月、8年越しの恋を実らせて結婚された寬仁さまと信子さま。
寬仁親王が「食道ガン」と最初に分かったのは、1990年の45歳のとき。
その後、ガンは体中に転移し、その度に手術を受けていた寛仁親王。
ガンが見つかった当初は、信子さまも得意の料理で、献身的な看病をされていたそうです。
「2003年になって8年ぶりにがんが再発した頃から、信子妃殿下の姿を殿下の周辺でぱったり見かけなくなりました。
そして、翌2004年7月には、信子妃殿下は軽井沢の別荘に移ってしまわれたんです。
以降、寬仁殿下がお亡くなりになるまで二人は別居したままでした」(寬仁親王知人)
三笠宮家・母と娘愛と憎しみの10年|週刊現代
信子さまが家族と別居した本当の理由
信子さまが闘病中の夫を放置したまま、娘2人とも離れ、1人で別居を開始した理由。
表向きは、信子さまの「一過性脳虚血の発作」などの体調不良が、別居の理由と言われていましたが、
真相については、いまだ「別の説」が囁かれています。
家族の確執が生まれてしまった原因は、一体何だったのでしょう。
別居理由1)寬仁親王のDVから逃れるため?
じつは寬仁親王は、長年アルコール依存症を患っておられました。
「寬仁親王の『DV』(家庭内暴力)は、結婚初期のころからあったのは事実で、それは昭和天皇のお耳にも入っていたようです。
“やっぱり彼女が一番”と、8年越しの恋を実らせて信子さまを選ばれて結婚した寬仁親王。
“期待”が大きかった分、理想と現実のギャップに失望し、暴力やアルコールに走ってしまわれたのかもしれません。
別居理由2)寬仁親王が信子さまを「幽閉」?
もう一つの説は、寬仁親王の介護などで心身のバランスを欠いてしまった精神不安定な信子さまを、
家や公務から遠ざけるために寬仁親王の方から信子さまを「幽閉」したという説。
別居理由3)信子さまが毒親だった説も!
信子さまが、「2人の娘に対する精神的虐待があった」と報じたのは、
情報誌『インサイドライン』。
〈暴力は伴わないものの、娘達を立たせたまま数時間も説教するなど、
母親としての躾・教育を逸脱した精神的虐待を日常的に繰り返していた〉
〈2人の女王殿下が成人後に初めて父親に打ち明けたのだという〉
信子さまは、今でいう「毒親」だったのでしょうか?
皇族も人間ですし、夫婦や親子の間には、家族にしかわからない軋轢もおありでしょう。
長年仲睦まじかった夫婦が、愛から憎しみに変わってしまうことも、世間ではよくあること。
ガンで闘病中の夫がいるなら、妻と子供たちが団結して、助け合い励まし合うシーンが描けそうですが、
逆に、病身の夫を置いて、娘とも顔も合わせないほど疎遠になるとは…ただ事ではない何かがあったのでしょう。
次女の瑶子女王が成人したのは、2003年10月。
ちょうど、寬仁親王と信子さまの別居が始まった時期と合致します。
娘からの告白を聞いて、寬仁親王はショックを受け、
信子さまと離婚を長年本気で考えていた…とも言われています。
長女彬子女王はイギリスに留学逃避?
複雑な夫婦関係になった両親から、逃れようと思ったのも一因だったかもしれません。
長女の彬子女王は、2004年9月から英オックスフォード大学に5年間留学し、博士号(専門は日本美術)を取得されています。
博士号取得は、秋篠宮さまに続き皇族として2人目、
女性皇族として史上初、海外の大学の課程博士号取得は、皇族として史上初の快挙でした。
↓彬子女王はその後、留学記『赤と青のガウン』を出版↓
『赤と青のガウン』は、ユーモアたっぷりに留学生活を綴っておられ、
かつて同じオックスフォード大学に2年間留学した父・寬仁親王との思い出が、
随所にちりばめられている一冊となっています。
…に対し、
『赤と青のガウン』には、不自然なくらいに母・信子妃についての言及は一切無いそうです…
さらに彬子女王は、寬仁親王の逝去から丸3年を機に雑誌『正論』7月号でのインタビューでも、母親についてはまったく言及されませんでした。
完全に、母親を「いなかった人」と位置付けている、彬子女王の強い決意が垣間見えます。
彬子さまと瑤子さまは、父寬仁親王が亡き後、公務に出ない(出られない?)母の代わりに、
携わってきた活動を姉妹で分担され、皇族として三笠宮家の一員として奮闘してきました。
いずれにしても、何か、他人には理解できないほど大きな亀裂が、寬仁殿下と信子さまの間には入ってしまい、
結果的に、娘二人は父親の側についたということ。
そして、娘と母は10年間、寬仁親王が逝去後も対立したまま
「私は10年ほど母とは会っておりません」
というご発言に繋がってしまったのです。
信子さまの公務復帰後も目を合わさない彬子さま
信子さまは、2012年6月の寬仁親王逝去時、
「最期のお別れ」を自らしなかったのか、娘二人に拒否されて出来なかったのか…の真相は分かりません。
▼彬子女王・瑤子女王▼
信子さまがご公務に復帰されたのは、寬仁親王逝去の翌年2013年11月でした。
以降、娘二人と同じ場所で公務をする機会も増えたものの、
母と娘が言葉を交わす場面を目撃した人は、誰1人いないとのこと…。
たしかに、先日の2019年のトランプ大統領との宮中晩さん会(下画像)でも、
他の一般参賀の写真を拝見しても、
母(信子さま)と、娘(彬子女王・瑤子女王)が、目を合わせて楽しそうに話しているシーンは、
残念ながら見つけられませんでした。
【関連】雅子様は何か国語はなせる?海外の反応も「かっこいい」!
親子関係は難しいですね。
時間が解決してくれることもあるので、後は時が解決するのを待つしかありませんね。
信子妃殿下の性格に問題あり?
信子さまは、幼いころから繊細な性格だったそうです。
寛仁親王は、信子さまの兄の麻生太郎大臣と昔から仲がよく、
妹信子さまを紹介したのも、兄麻生太郎さんだったとか。
友達の妹を好きになるって…よくあることだわ!
「寬仁殿下は麻生太郎さんと非常に親しく、よく酒を飲む仲だったといいます。殿下に妹の信子さんとの結婚を勧めたのも、麻生太郎さんです。
殿下は何度も信子さんにプロポーズをしたのですが、その度に(母の)和子さんが『娘には心身に障害がございますから、妃殿下はとても務まりません』と断られたそうです」
(皇室ジャーナリスト・松崎敏弥氏)
信子さまの「心身に障害」とは、もともと何かしらの「精神的疾患」を患っていらっしゃったのでしょうか?
信子さまは自己顕示欲が強い性格?
一説によると、信子さまは、彬子さまと瑤子さまが幼いころから、
『自分は他の皇族から嫌がらせを受けている!』
と家族や友人に漏らし、
その言葉を信じた娘たちは、他の皇族方を自然と避けるように生活していたとのこと。
そのような信子さまの「不安定な言動」に不審を抱いた寬仁親王は、
だんだんストレスが溜まり、アルコールに溺れていったとも言われています。
信子さまの性格は、“自己顕示欲が強い”などと報じられたこともありますが、決して否定できることではありません。
そのような信子さまの性格に寬仁さまは不満をお持ちだったようです。
週刊女性2016年11月15日号
自己顕示欲とは、一言でいうと、常に自分が一番注目されていたいという欲のこと。
自己顕示欲が強い人は、自我の満たされない欲求を満たす手段として、
時には突拍子もない言動を起こし、周りを困惑させることがあり、
「精神的な疾患がある人」と言われてしまうこともあるのです。
信子さまが、寛仁親王が亡くなられた翌年にご公務に復帰して、最近すっかり元気になられている現在のお姿を見ると、
体調不良になった原因は、やはり夫婦関係の亀裂が最大の原因だったのは間違いないな…
と思ってしまいますね。
信子妃殿下プロフィールと家系図
photo by 防衛省,Princess Nobuko attending a concert of the “Tokyo Band”.2017
《寬仁親王妃信子(ともひとしんのうひ のぶこ)》
生年月日:1955年(昭30年)4月9日
お印:花桃(はなもも)
旧名:麻生 信子(あそう のぶこ)
《寬仁親王の妃の家系》
・歴代内閣総理大臣吉田茂の孫
・第92代内閣総理大臣麻生太郎の妹
信子さま・皇室の家系図
宮内庁ホームページより・皇室の構成図(令和元年5月1日現在)PDFはこちら
信子さまの学歴
1955年(昭30)4月9日、麻生セメント会長の麻生太賀吉の三女として誕生。
聖心女子学院初等科、中等科を経て、英国のロスリンハウス・カレッジ(Roselyn House College)へ入学
卒業後、自身も通っていた松濤幼稚園に英語講師として勤める。
多才な信子さま
信子さまは、ご経歴のとおり英語がとてもお上手です。
現在は
- 日本赤十字社名誉副総裁
- 社団法人東京慈恵会総裁
- 財団法人日本ばら会名誉総裁
などの総裁職に就いていらっしゃいます。
↓お料理に関する著書も↓
信子さまの若い頃!寛仁親王から16歳の時プロポーズ!
1972年、信子さまがなんとまだ16歳の時に寬仁親王(当時26歳)からプロポーズ!
お若い頃の信子さま別人。びっくりするほどキャシャで細すぎる…!ガリガリです。
信子さま、体重は現在の半分以下にお見受けしますが…w
身長は意外と高い方で、紀子さまより数センチ差の159cm~160cmくらいでしょうか。
当時はまだ「高校生で若すぎる」と反対され、
8年後の1980年(昭55)11月にめでたくゴールイン。
1981年12月20日 長女彬子(あきこ)女王
1983年10月25日 次女瑶子(ようこ)女王
の娘二人をご出産。
2012年寛仁親王薨去(ともひとしんのう こうきょ)
寬仁親王は2012年6月6日、66歳で薨去(こうきょ)されています。
死因は多機能不全でした。
寬仁親王は「ヒゲの殿下」という愛称で、テレビのバラエティー番組に出演したこともあり、
破天荒な言行でも知られていました。
生前は癌やアルコール依存症に悩まされていたといいます。
信子妃殿下の住まいはどこ?
信子さまは現在も、赤坂御所の三笠宮邸には住んでいらっしゃいません。
宮内庁分庁舎として使われていた「旧宮内庁長官公邸」(東京都千代田区)
という国有財産の建物に住んでいらっしゃいます。
皇族妃が生活するのはもちろん異例の措置。
2004年に「更年期障害」と診断された信子さまは、軽井沢にある姉の別荘で静養生活ののち、
2006年、一旦宮邸に戻られるも「気管支ぜんそく」を発症して入退院を繰り返していました。
退院後も、
という主治医の見解を公表し、
寛仁親王家は、ずっと寬仁親王と彬子さま、瑶子さまの三人暮らしだったようです。
三笠宮家は火の車!?
皇室経済法の規定で、当主の親王には『皇族費』として年間3,050万円が支給されます。
しかし寬仁親王亡き後、信子さまは、高円宮久子さまのように宮家の当主を務めることはしませんでした。
よって年間3,050万円の支給も消滅し、現在は親王の妃として信子さまに1,525万円、
彬子さまと瑶子さまには640.5万円ずつ支払われています。
今の状態だと、信子さまが生活する旧長官公邸での生活の分だけ、余計に経費が掛かっているることに。
信子さまは、ご自身に年間1525万円支給されている皇族費を、月額10万円しか受け取っていないと訴え続け、日常の費用は、三笠宮東邸に請求しているという。2016.10.14 週刊朝日
私的に雇用するスタッフやSPの給与など、皇族費から諸経費を支払えば、
“ご本人たちの手元に残る金額はギリギリ“という見解が多いようです。
信子妃殿下の病気と障害!確執は娘と不仲で性格や若い頃に問題も?まとめ
結婚前は、見ている方が恥ずかしくなるほどラブラブなカップルでも、
結婚した途端に、価値観や性格の不一致で、あっさり離婚してしまうカップルはどこにでもいます。
でも、皇族となれば離婚は基本的に許されないので、三笠宮家の方々は、精神的にどんどんと追いつめられていったのかもしれません。
色んな想いを秘めたまま、ガンやアルコール依存症に苦しんでご逝去された寬仁親王。
きっと、残された母と娘たちが、笑顔で一緒に三笠宮家を支えていかれることを、
天国で望んでいらっしゃるんじゃないかな…と筆者は思いました。