『ヒゲの殿下』の愛称で知られていた三笠宮家の寛仁(ともひと)親王(2012年66歳没)。
「アルコール依存症」という病名を公表。
「皇室はストレスの塊のようだ」とインタビューで答え、
徹子の部屋にTV出演するなど、皇族として多くの伝説を残しました。
令和時代は、「海外逃亡婚」の秋篠宮家K眞子さんが最高にブッ飛んだ皇族として記憶に新しいですが、
昭和時代の『ヒゲの殿下』も、その先駆者として、
今もなお、多くの人の心に残り愛され続けています。
髭の殿下(三笠宮家の寛仁親王)とは?
全名:寬仁(ともひと)
出生:1946年1月5日
死去: 2012年6月6日(66歳没)
配偶者: 親王妃信子(麻生信子)
子女: 彬子女王・瑶子女王
父親 :三笠宮崇仁親王
母親 :崇仁親王妃百合子
引用:wikipedia
寛仁親王は、三笠宮崇仁親王と同妃百合子のご長男。
家系図上は、令和時代の天皇陛下(徳仁さま)の伯父にあたる方です。
麻生太郎(第92代内閣総理大臣)は義兄(妃・信子の兄)、
姉に近衞甯子、弟に桂宮宜仁親王と高円宮憲仁親王、妹に千容子がいらっしゃいます。
髭の殿下とアルコール依存症と闘病生活
30代ですでに、お酒に頼る生活になり、
40代となった1990年以降、癌(食道・咽頭がん)、
アルコール依存症などの疾患や、ケガに悩み続けた寛仁親王。
2006年9月16日には洗顔中に転倒し顎を骨折、
2008年(平成20年)3月に咽頭癌の再手術を受けた際に、
肺炎を発症したことで喉を損傷され、声を失いました。
公務の際には、電気喉頭を首に当てて会話を行っていたお姿が、
記憶にある人も多いのではないでしょうか。
闘病生活の中でも公務をこなし続けた寛仁親王。
1991年(平成3年)1月の癌発見から亡くなるまでの21年間、
癌の手術や治療は計16回以上に及びました。
髭の殿下の皇室離脱宣言
寛仁親王は1982年36歳・王位継承7位のとき、
毎日新聞が「三笠宮寛仁親王殿下 皇籍離脱お申し出」と報じ、
世間に衝撃を与えたこともありました。
「多忙で十分なことができない、皇族の身分を離れ身障者問題などに時間と努力を打ち込みたい」
との、ご本人の強い希望が理由だったそう。
「あのときは昭和天皇が入江相政侍従長を通じて寛仁殿下を呼び出し『いい加減なことを言うな』と強く叱責された。以後、殿下は何もおっしゃらなくなった。2021年11月1日ポストセブン
皇室典範第11条によると、
“やむを得ない特別な事由があるときには皇室会議の議により身分を離れることが出来る“
とされてはいるものの、皇位継承権者からの皇籍離脱の申し出は前例がなく
周りからも強く説得されたとことで、けっきょく離脱計画は“失敗”となった寛仁親王。
「制約の多い皇族から自由になりたい」と公にご自分のお気持ちを切望した離脱宣言は、
“皇室を離れたい一心で結婚を選んだ“と報じられた小室眞子さんにも通じるところがありますね。
昭和天皇に強く叱責されて皇室に残った寛仁殿下。
かたや、“個人の意思”を尊重した結果、国民の多くから歓迎されないまま「海外逃亡婚」となった秋篠宮家の元内親王。
そんな姉を見て育った、皇位継承順位2位の悠仁さまが、将来即位の辞退を求めたらどうなるのか…
時代は変わっても、皇族方の公私と役割についての議論は、今後も続きそうです。
髭の殿下「皇室はストレスの塊」
アルコール依存症を公表し『ヒゲの殿下』として親しまれた三笠宮寛仁さま。
「ストレスの塊のようなものでした」
と発言された実際のインタビュー記事(2007年10月20日付け米ニューヨーク・タイムズ紙より)
A Font of Commentary Amid Japan’s Taciturn Royals https://t.co/X4GIJTvCpF
— buzbuz (@buzbuz49341855) January 18, 2022
“like one big ball of stress.“
「皇室はストレスの塊のようなものでした」
と、米紙のインタビューに対して答えていた寛仁さま。
「(ストレスは)ここ1年や2年のことではありません。皇室は…ストレスの塊のようなものでした」
「(妻と娘二人の家族について)家庭の中も、物事がめちゃくちゃなんです。まぁ、26年も一緒にいれば…、わかるでしょ?」
と、苦悩を激白されました。
日本の皇族が、外国メディアに対して、自身や皇室の問題について告白するのは極めて異例のことで、世間に衝撃を与えました。
健康の悩み、家庭の悩み、仕事の悩み、皇族という生い立ちの悩み…
“微笑みの皇室”というイメージとは真逆の人生だった寛仁親王。
ご自身がアルコール依存症になってしまった背景には、
想像を絶するような苦悩とストレスがあったのでしょう。
髭の殿下のDV疑惑
「寛仁親王」とネット検索すると、いまだに
「DV」
という衝撃な言葉がでてきます。
これは、
“寛仁親王が妻の信子さまにDV?”
あるいは
“信子さまが娘(彬子女王・瑶子女王)に虐待まがいのしつけをしていた?”
など色々と噂がありますが、
当事者がなにも語らないので真相は不明です。
ただ、さきほど紹介したように、寛仁親王がインタビュー記事で生前
「(妻と娘二人の家族について)家庭の中も、物事がめちゃくちゃなんです。まぁ、26年も一緒にいれば…、わかるでしょ?」
と本音を語ったように、
家庭内で、公表できない何らかの根強いトラブルがあったのは間違いありません。
事実、寛仁親王と妻の信子さまは、2003年頃にはすでに別居状態になり、
2012年6月の寬仁親王逝去時、
信子さまがお葬式に現れることはなく、長女の彬子女王が三笠宮家の喪主を務められました。
▼お葬式に妻信子さまの姿は無く…
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三笠宮家の確執
実は、信子さまと娘二人(特に長女の彬子さま)は、10年以上犬猿の仲というのは有名な話。
彬子(あきこ)さまは、2015年6月10日発売の『文藝春秋』で
「私は10年ほど母とは会っておりません」
と、はっきりと、取材に対して母・信子さまとの確執を隠すことなく告白したこともありました。
ガンで闘病中の夫がいるなら、妻と子供たちが団結して、助け合い励まし合うシーンが描けそうですが、
晩年の寛仁親王は、とても孤独なものだったのではないでしょうか。
▼詳しくはコチラ
寛仁親王は「スポーツの宮様」
人柄も発言もざっくばらんだった「ひげの殿下」。
「アルコール依存症の三笠宮です」
「酒もたばこも未成年の頃からやっていました」
「高校生になってからは粋がるようになって、チンピラまがいのことをやっていた。タバコを吸うとかさ」
1977年4月1日、テレビ番組「徹子の部屋」に出演の際は、平気でNGワードを連発。
黒柳「(タバコは)おいくつのときから?」
寛仁「高校1年生くらい」
黒柳「お酒は?」
寛仁「お酒はもっと前から飲んでいたね」
また、深夜放送でDJを務めたことも。
リスナーから「皇族でなかったら何になりたかったですか」という質問には
「政治家とか経済界の親分になりたかった。スキーの先生もいいかな」
と答えられたのだそう。
ご本人によれば「学業の成績は『メチャクチャに悪かった』」そうですが、
学生時代からスキーやソフトボールなどのスポーツには熱中されていました。
がんに侵され続けた闘病生活でしたが、障害者福祉やスポーツ振興などの啓発活動に尽力され、「スポーツの宮様」として愛された66年の生涯でした。
髭の殿下のアルコール依存症・DV疑惑・皇室離脱まとめ
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