天皇陛下と雅子様の馴れ初めは?出会いとプロポーズの言葉からご結婚まで!

雅子様 天皇陛下

徳仁(なるひと)天皇陛下と雅子さま。

令和時代になりお二人の「通訳無しの皇室外交」のご活躍が眩しすぎて、

ますます大ファンになってしまた管理人です。

お二人の出会い~ご結婚に至るまでは、実に6年間の歳月を要し、

皇太子さま(当時)は33歳でようやく3歳年下の小和田雅子さんとご成婚。

馴れ初めは「天皇のお妃選び」と称したプロポーズ大作戦で、

天皇陛下は雅子さまに2回も“お断り”されてからの、2アウト満塁大逆転ホームランでした。

…ちなみに!

兄より先にサッサと結婚された弟の秋篠宮さまと紀子さまの馴れ初めは、学習院大のサークルでスピーディな恋愛結婚。

お団子の女性 なのなのなさん

次男はいつでも自由奔放ね!

「長男の嫁」は、ただでさえイロイロ面倒な責任を負わされるので、婚活では敬遠されがち。

世界最古の格式と血統を誇る、日本の皇室の跡取り息子の嫁となると、

選ぶ方も選ばれる方も、一筋縄ではいかなかったのですね。

天皇陛下はどんな女性を理想とし、雅子さまとのご成婚までに、どんな道のりや困難な6年間があったのでしょう。

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天皇陛下の婚活は14歳から!

天皇陛下(以下、陛下・浩宮(ひろのみや)さま・皇太子さま)は幼いころから「将来の天皇」として、

たった14歳の頃からお妃候補の報道が上がるなど、彼女選びは異常な盛り上がりを見せていました。

40年以上前だと、まだインターネットも無かった昭和時代。

余談ですが、今の感覚だと「次期天皇」の13歳の秋篠宮家の長男・悠仁さまと同年齢。

今では想像ができませんよね(笑)

周りの世話係が、どんなに身分の高い貴族のお嬢様を連れてこようが、

最初から理想のお妃として「民間出身の女性」を望まれていた天皇陛下。

陛下が25歳の時には、

「自分と価値観や金銭感覚・趣味や関心が合い、家柄や身長云々よりも世間知らずでなく他人の心が分かり、人の苦しみや悩みを推し量ることができる、必要な時には自分の意見をしっかり言える女性が理想」

出典:Wikipedia 皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀

と、あくまでお妃選びは「人柄重視」と答えておられました。

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1986年10月運命の出会い

天皇陛下と雅子さまの最初の運命の出会い。

諸説ありますが、ご婚約会見でも語られている通り

「1986年10月18日スペインのエレナ王女を迎えた東宮御所でのパーティー」

とされていて

  • 浩宮さま   26歳
  • 雅子さま 22歳

の時でした。

仲介役となった中川融(トオル)氏は、元外交官で当時の浩宮さまの留学アドバイザー。

当時、外務省条約局長だった小和田恆(ひさし)氏の長女・雅子さまを推薦されたのです。

中川氏によれば、

「雅子さまは、優秀で自分の意見をはっきりと持ち、なおかつ人柄も優れていたので、浩宮さまの理想にぴったりの女性」

と、ピン!ときたのだとか。

ただ、そのパーティーにはご一家で参加され、あくまで雅子さまは外交官としての経験を踏むためであり、

まさかお妃候補としての顔見せの意味があったことは、小和田一家は知らなかったそうです。

雅子さまも、自分が「吟味」されているなど、知る由もなかったと思います。

ですが、陛下もこの時すでに、雅子さまにピン!と来られ、すぐに好感をお持ちになりました。

雅子様お美しいですもの…!

天皇陛下と雅子さまの明らかにされているコンタクト情報

▼1986年11月…日英協会主催のパーティーで初対面

▼1986年12月…東宮御所での「年越し会」に小和田家を招待

▼1987年4月…日英協会のパーティーで再会

▼1987年10月…東宮御所で夜の茶会に招かれる

▼1987年12月9日…雅子様24歳の誕生日に陛下からの花束が小和田邸に届けられる

▼1991年9月…中村紘子コンサートの打ち上げに、高円宮家が雅子様を招待

▼1992年8月…陛下と外務官の柳谷謙介宅にて5年ぶりに再会

▼1992年年末…雅子さまご結婚決意

参考:Wikipedia 皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀

特に雅子さまを「この人ならお妃になれる!」と高く評していたのは、

故・高円宮憲仁親王(高円宮妃久子さまの夫)だったそうです。

雅子さま22歳というと、

「親子2代の外交官」

「ハーバード大卒」

として、外交官の父の背中を追いかけ、ご自分も外交官としてキャリアをスタートさせたばかりのころ。

▼当時の貴重な独自インタビュー秘蔵動画がありました…!▼

1986年・22歳のういういしい雅子さま。

結婚について聞かれると、

「仕事と家庭の両立はなかなか難しいかもしれませんが、それはその時になって自分で解決していく問題だと思います。できれば仕事と家庭は両立していきたいです。」

と語られています。

ちなみに、調べてみましたが、雅子さまに当時お付き合いされていた、確実な元カレ情報はありませんでした。笑

まさかこの時に、ご自分が将来、日本の天皇のお妃になるなんて、想像もされていなかったんじゃないでしょうか。

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『チッソ問題』勃発

実は当時、天皇陛下と雅子さまの結婚には「断固反対!」という意見も内外からありました。

理由は雅子様の家柄に関わる『チッソ問題』でした。

雅子さまの祖父が、水俣病の原因企業となったチッソの元会長・江頭豊氏であることに懸念を持った宮内庁幹部が

「雅子さまは、やはりお妃候補に入れない方がいいのではないでしょうか…」

と、浩宮さまに「お考え直し」を促した出来事のことです。

江頭豊氏と水俣病

【江頭豊(えがしらゆたか)】

1908年(明41)1月16日 – 2006年(平18)9月24日 98歳没)

日本興業銀行を経て、チッソ株式会社の社長(1964年 – 1971年)として水俣病問題の対応にあたった。

雅子様の母方の祖父。学位は法学士(東京帝国大学)

▼1991年 雅子様28歳・祖父江頭豊氏83歳のころ▼

Embed from Getty Images

水俣病(みなまたびょう)とは、1956年(昭和31年)5月1日に熊本県水俣市にて公式発見された、水銀化合物による中毒性疾患。

環境汚染が原因で、食物連鎖によってヒトが経口摂取して集団発生した。1997年(平成9年)に水俣湾の安全宣言がなされ、漁が再開されている。

wikipedia 水俣病

水俣病、イタイイタイ病…など、筆者も小学生の頃に社会科の授業で習いました。

戦後の劣悪な環境汚染と経済成長がもたらした、恐ろしい公害病の一つです。

水俣病の原因企業となったチッソの会長だった雅子さまの祖父・江頭豊氏。

ですが、1964年にチッソの会長に就任した時は、すでに水俣病発生から8年以上も経過し、

公害病として顕在化していた後でした。

江頭豊氏は、水俣病事件につては、法的責任は問われないとして、

当時の元最高裁判事・団藤重光氏により決着がついています。

これにより『チッソ問題』がお妃候補のネックになっているという声は沈静化に向かい、

マスコミの報道はさらに過熱していきました。

1988年雅子様イギリスへ&破綻に

出会いから一年もしないうちに、

「雅子さまが数あるお妃候補の中で最も有力である」

とスクープされ、マスコミは一斉に雅子様を追い掛け回すようになりました。

マスコミは、雅子さまの職場だけでなく、ご出勤や帰宅時など目黒区の実家前まで押しかけ、

尾行したり、深夜でも構わず暗がりで声をかけるなど、異常な取材は問題になりました。

この時に、浩宮さま(天皇陛下)に雅子さまを紹介した張本人である中川氏も、ようやく

「私が雅子さんをお妃候補として推薦させていただきました」

と小和田家側に明かしたそうです。

しかし、雅子さま含む小和田家の皆さんは当時、その申し出を、固辞(こじ)=「謹んで辞退」されていました。

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固辞(こじ)…!

雅子さま、逃げるようにイギリスへ

“お妃になることは謹んでお断り“された雅子さま。

外交官としてバリバリお仕事もされ、追い掛け回してくるマスコミにも、ほとほとお疲れだったと思います。

そして雅子さまは、喧噪から逃れるように、1988年から2年間、外務省のイギリス研修へ旅立たれました。

しかーし!

諦めきれないマスコミは、なんとイギリスまで追いかけ、雅子さまを追い掛け回しました

このシーン、筆者も小さいころ、テレビで見た覚えがあります…!(笑)

「あの…!すみませんけど(怒)、わたくしは関係ありませんので…取材はやめていただきたいんですけれど…(怒)」

と、明らかにブチ切れ気味のポーカーフェイス雅子さまも、かっこいい!(笑)

なんですか、この、女優さんのような美貌とぶっ飛びバブリーな華やかさは…!

頭脳明晰・才色兼備・美しすぎてため息出るワ…

雅子さまはどんなに取材陣に問われようと、

 「とにかくお妃候補には関係していません、外務省も辞めるつもりもありません」

とキッパリ自分の口から“お断り宣言”されていました。

「チッソ問題」

「雅子さまイギリスへご留学」

「自らご結婚の意向ナシとピシャリ発言」

なども重なり、雅子さまはいつしかお妃候補から完全に消えることになりました。

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1989年婚活が座礁したまま平成へ

1989年(昭和64年/平成元年)、浩宮(ひろのみや)さまの結婚問題を心配されたまま、昭和天皇が崩御され、平成に。

浩宮さまは「皇太子さま」となり、弟・秋篠宮さまが紀子さまと先にご結婚。

 紀子様は正体が怖い!?雅子さまライバル視のお噂とは

・紀子様って本当の正体は怖い人? ・紀子様の結婚時の過去の怖い計画? ・紀子様の顔が怖い… 30年前の《平成》の始まりに、...

雅子さまにお妃の可能性が無くなったマスコミは、それから会見ごとに毎度皇太子さまに、「理想の女性に出会えましたか?」と質問するも、

「理想の女性に会えたかもしれないし、会えなかったもしれない」

とお答えされるだけ。

結婚問題がなかなか進展しない事に、国民も不安を募らせていました。

しかーし!

天皇陛下は、何があっても雅子さまを諦めていませんでした…!!

記者会見では、将来の天皇のお立場ゆえ、

「自分の気持ちと同時に周囲の意見も尊重したい」

との考えを述べておられたものの、

当時の側近・宮内庁長官・藤森昭一氏に対しては

「やはり私は雅子さんでなくては…」

という思いをたびたび伝えていらっしゃとのことです。

陛下の一途なお心…胸キュンだわ!

1992年10月二人きりの鴨場デート&プロポーズ大作戦!

弟の秋篠宮さまが結婚しても焦ることなく、慎重に時間をかけて、信頼のおける側近の人間と結束し、周りの状況を固められていった天皇陛下。

そして、5年ぶりの再会を経て、なんとか雅子さまと二人きりでのデートにこぎつけたのは、1992年10月3日でした。

皇室が接待に使用する宮内庁の「新浜鴨場・しんはまかもば」(千葉県市川市)で、

陛下と雅子さまの二人きりのデートが実現したのです!

それが、正式にプロポーズをされた

「鴨場(かもば)デート」

でした。

「皇太子さまが雅子さまにプロポーズされた1992年10月の鴨場デートは、まさに“極秘プロジェクト”だった。絶対にマスコミにデートをキャッチされてはなるまいと、東宮御所から車で千葉県の新浜鴨場に向かわれた皇太子さまに付き添ったのは、運転手と当時の東宮侍従長だけ。…この日だけはSPに一切の連絡をしなかったという異例のデートだった」

女性セブン2014年9月18日号

鴨場

千葉県市川市・宮内庁新浜鴨場の門(2013年)

「鴨場(かもば)」は、現在、宮内庁が管理する伝統的な狩猟を行う場所として、全国4か所にあります。

このデート計画は、一切の情報漏洩を防ぐため、あらゆる手段を使って徹底したシークレット状態だったそう。

周りの誰も、お二人のデートに気づくことはなかったと言います。

万が一、事故にでも巻き込まれれば一大事でしたが…そこまでしなければ実現しなかったのが、天皇陛下と雅子さまのご結婚だったんですね。

お二人は、鴨場をゆっくりと散策されながらお話をされ、そして陛下が雅子さまにプロポーズ!

「私と結婚していただけますか」

と、ストレートに雅子さまに思いを伝えられました。

雅子さまはこの時、即答はされずあまりにもお悩みになり、お仕事(外務省)を体調不良で10日も休んでしまいました。

そして、17日後の10月20日には、

「(雅子の)気持ちが決まらない」

という趣旨で小和田家側からまたまた断りの返事が返ってきました。

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固辞(こじ)アゲイン…

二人きりのデートをして、正式にプロポーズをされてもなお、雅子さまの気持は固まりませんでした。

1992年12月雅子様ご婚約を決意

雅子さまは正式プロポーズを改めて「お断り」したものの、結婚に対するお気持ちにだんだんと変化が生じ、天皇陛下の真摯な人柄や姿勢・お言葉に惹かれていったといいます。

また、当時は女性の社会進出が今ほど進んでいない時代でもあり、外務省でのキャリアの限界も感じておられました。

天皇陛下は、雅子さまに

「外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも国を思う気持ちに変わりはないはず」

「時間をかけて納得がいくまで考えてください」

と、返事を催促するようなことはせず、雅子さまのお返事を待ち続けられました。

そして雅子さまは、何度か天皇陛下と電話で話すうち、プロポーズから2カ月後の11月後半頃には、

次第に皇室で役立つことが、自分の新たな役割なのではないかと考えるようになったのです。

▼1993年1月19日の婚約会見動画▼

動画開始4:30過ぎから、雅子さまは、

「今わたくしの果たすべき役割というのは、殿下からのお申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることですので、外務省を去ることに悔いはございません」

と決意を述べられています。

相当に悩まれた雅子さまでしたが、

「皇室に入ることにはいろいろ不安もおありでしょうけれど、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」

という天皇陛下の温かいお言葉が決め手となり、ご結婚を決意されたのです。

初めての出会いから約6年の歳月が経ち

  • 皇太子さま   33歳
  • 雅子さま 29歳

の時でした。

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陛下に感謝の気持ちでいっぱいです!

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1993年6月9日・皇居で結婚の儀

1993年2月9日に雅子さまは外務省を退社され、すぐに「お妃教育」がスタート。

3月12日から、一般に「お妃教育」といわれる、婚約者に皇族として必要な知識などを講義するご進講(ごしんこう)。雅子が堪能な語学を省略しても週に4日のペースで6週間、計50時間、宮中祭祀、皇室制度や皇室典範・憲法、日本歴史、和歌、書道などで、祭祀と制度関係は親王妃の2倍近い時間だった。雅子は数十冊のノートを取り熱心に学習したという。

wikipedia 皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀

国民の一大イベントとして祝福されたお二人は、

「これからは2人して皇族としての様々な務めに励んでいきたいと考えます」

との感想を発表され、1993年6月9日、皇居で結婚の儀が行われました。

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お二人は皇居から東宮仮御所までの約4.2キロをオープンカーでパレード。

沿道には市民約19万人が詰めかけ、NHKで生中継された結婚の儀の視聴率は30%超えとなりました。

天皇陛下はずっと雅子様が大好き!

天皇陛下と雅子さまの出会いから結婚までの6年間の馴れ初めをみてきました。

分かったことは、陛下は雅子さまのことがずーと大好きだだったということ!

2018年6月9日、ご結婚25年周年を迎え、銀婚式を迎えたお二人

“(雅子さまに)点数を付けるとすればそれぞれ何点を差し上げたいですか?”

という質問に対し、

「点数を付けるのは難しいですが、今回は、結婚10年の折の「努力賞」と「感謝賞」のダブル受賞に加えて、銀婚式に因んで銀メダルも贈りたいと思います」

と語られた天皇陛下。

雅子さまも

「私が体調を崩してからも、皇太子殿下には、いつも優しく細やかなお心遣いをいただきながら、お助けいただいてきていることに心から感謝申し上げたいと思います」

と話され、いつも陛下が傍で支えておられたことに感謝されていました。

雅子さまはご存知の通り、皇室に入ってからすぐに「適応障害」という病気と診断され、

長らくの間、ご自分の思い通りの活動が出来ませんでした。

天皇陛下がプロポーズで

「雅子さまのことは、僕がずっとお守りします」

というお言葉通り雅子さまに寄り添い、そして雅子さまもその真摯な思いに心を掴まれていることは、ご結婚以来、変わらないお気持ちなんだ思いました。

天皇陛下と雅子様の馴れ初め!出会い・プロポーズ・ご結婚までまとめ

天皇陛下が、昭和の浩宮時代~平成の皇太子時代を経て、6年もの歳月をけて射止めたお妃雅子さま。

最初に“この人だ!”とピン!と来てからのブレない思いと、優しく真っ直ぐなお言葉が、雅子さまの心を動かしたのですね。

令和時代になり、天皇陛下と雅子皇后は「皇室外交」と言われるほど、各国の要人と通訳無しでお話しされ、イキイキとしたお姿を拝見できて、本当にうれしく思います。

ご結婚されて以降も、紆余曲折ありましたが、雅子さまの病状は格段に回復に向かわれているとのこと。

ご無理のないようにこれからもお二人らしい皇室のカタチを築いて下さればと思います。

あ!ちなみに、

平成~令和の代わり目に婚約座礁中の秋篠宮さまの長女眞子さまとKKさんについては、

[眞子様が婚約破棄で1億円の慰謝料発生?破綻にできない理由]

[眞子様の元カレは誰?キス画像流出の相手は小室圭?]

もどうぞ~!

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